18世紀には、お茶はイギリス人にとってなくてはならない国民的飲料となっていましたが、イギリスの気候下ではお茶を育てることはできませんでした。そのため、19世紀前半までお茶は中国から買う意外にありませんでした。
国家財政とアヘン戦争
中国とイギリスは直接貿易で結びついてはいましたが、18世紀後半まで中国側にはイギリスから買わなければいけないようなものは少なく、貿易はいつもイギリス側の赤字となっていました。
イギリスがお茶の代金として支払う銀の量は国家財政を揺るがすようになり、イギリスはどうにかしてお茶を確保できる財源を見つけなければなりませんでした。
そこで目を付けたのが、植民地インドで栽培されていた「アヘン」です。
アヘンはケシの実から作る麻薬で、常飲すると中毒になる薬物でした。日本でも明治時代に一時期流行したもので、漢字では「阿片」と書かれます。
中国にも元々は薬として存在していたものでしたが、イギリスが持ち込んだアヘンは煙草のように吸引するもので、嗜好品として庶民の間に広まっていきました。
1800年には中国(当時は清国)政府はアヘンの輸入・吸引・栽培を禁じましたが、法令は徹底せず、アヘンの密輸入は増加の一途を辿るばかりでした。
1827年にはイギリスではなく清国側が銀の莫大な流出に悩まされるようになります。アヘンの高い中毒性が窺えますね。
1839年、林則徐がアヘンの禁絶命を受け、広州でイギリス商人のアヘンを没収・焼却しますが、それを不服としたイギリス側と衝突し、アヘン戦争が始まります。
結果は歴史の教科書にも書かれているとおり、イギリス側に軍配が上がり、1842年には南京条約という不平等条約が締結されました。
この条約でイギリスは香港を獲得し、広州・厦門・福州・寧波・上海の五港を開港させ、イギリス有利な様々な条例を通し、中国への経済支配力を強めましたが、1844年以降、アメリカやフランスも同じような条約を清国と結んだため、事実上イギリスの独占的な貿易は二年間しか続きませんでした。