紅 茶 専 科

イギリスの茶貿易と争い③

2018/08/12
 
この記事を書いている人 - WRITER -
紅茶好きの30代主婦。
目覚めの一杯からおやすみ前の一杯まで、紅茶に始まり紅茶に終わる生活をしています。
”お紅茶”なんて上品なものとは程遠い、水分補給を兼ねたガブ飲み派。
主人も実家の家族もみーんなコーヒー派のため、集まったときは一人だけ紅茶と言うメンドクサイことになる(笑)

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それまで独占的に中国との貿易をしていたイギリス東インド会社は、1833年に自由貿易が許可されるようになるとその特権を失います。
貿易が自由化されると、どれだけ速くお茶をイギリスへ運べるかということに重きが置かれるようになり、各国の造船技術は向上の一途を辿っていきました。

 

スピード重視の船「ティークリッパー」競争

お茶の運送時間が短ければ、それだけ新鮮なお茶を届けることができ、お茶も高い値段で買い取られます。
各国は競ってお茶の運送を開始しますが、この頃の船はまだ帆船でした。
イギリスの船は大砲を装備した元東インド会社の鈍重な船だったため、アメリカが開発した新型の船にはとても追いつけるものではありませんでした。
1841年頃からイギリスでもスピード重視の船が作られるようになり、その快速船は「ティークリッパー」と呼ばれました。
1850年にはアメリカのオリエンタル号が香港―ロンドン間を95日という驚異的なスピードで航行し、その積み荷のお茶はイギリスの船のお茶の二倍もの値で買い取られたそうです。
これに対抗したイギリスは、1853年にアンゴーム号を開発、後にアメリカとの競争にも勝利しました。
この船の競争を人々は面白がり、お金をかけてどの船が一着で到着するかという競売を始めます。
1886年のレースは歴史に残る最大のものとなり、人々を大いにわかせました。
しかし、この頃から海上には蒸気船が出現し始め、帆船の時代は終わりを告げます。
1869年には蒸気船だけが航行できるスエズ運河が開通。幅のある帆船は運河を通ることはできず、結果として遠回りになるために蒸気船のスピードには追いつけなくなりました。

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目覚めの一杯からおやすみ前の一杯まで、紅茶に始まり紅茶に終わる生活をしています。
”お紅茶”なんて上品なものとは程遠い、水分補給を兼ねたガブ飲み派。
主人も実家の家族もみーんなコーヒー派のため、集まったときは一人だけ紅茶と言うメンドクサイことになる(笑)

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