オランダに代わり茶貿易の勢力を誇るようになったイギリス。
その勢いはとどまることを知らず、各地に領土を広げていきます。
その過程で勃発した各争いにも、紅茶は深く関わっていました。
ミャンマー支配とミャンマー紅茶
イギリスがミャンマーの本格的統治に乗り出したのは、1824年の第一次イギリス・ビルマ戦争からでした。その後幾度もの戦いを経て、1886年にビルマ全土はイギリス領となります。
この頃、イギリスでは紅茶の需要がさらなる高まりを見せており、中国から買い付ける以外にも植民地のインドでも茶の栽培をしようとしていました。
しかし、イギリス人はインドでのアッサムの茶園開発に注力しており、ミャンマーでの茶園開発にはほとんど力を入れていませんでした。
ミャンマー紅茶「ラペイエ」
イギリス人は力を入れていなくとも、ミャンマーでは茶栽培は行われていました。
元々ミャンマーは茶の産地であり、人々はお茶を主な飲み物としていました。
日本の喫茶店で水が出されるのと同じように、ミャンマーでは緑茶が、それもセルフサービスで提供されるそうです。
イギリスの支配を受けた後、ミャンマーの中にイギリスの紅茶習慣が定着していきます。そのひとつが「ラペイエ」という紅茶です。
ラペイエは濃く煮出した紅茶とコンデンスミルクを混ぜたミルクティーのような紅茶。とても甘く、飲み終わった頃にはセルフサービスで出されている緑茶が欲しくなるくらいだそうです。
ミャンマーでお茶にミルクを入れる習慣が伝わったのは、イギリスに統治された19世紀半ばのことで、同時にコーヒーも伝わったそうです。
しかし、ミャンマーでは牛乳は流通しておらず、暑さの中では保存もできなかっため、ミルクがコンデンスミルクになっていったそうです。
茶税とボストンティーパーティー
1660年、イギリスでは既にお茶は課税対象になっていましたが、その税率は上昇を続けていく一方でした。
その所為で茶商人たちは悪質な偽茶を作って売りつけるようになり、イギリスの紅茶の質は悪化してきます。
これに待ったをかけたのがかの有名な「トワイニング社」の三代目リチャードでした。
トワイニング社と茶税の関わりについては別項で触れているのでここでは割愛させて頂きます。
1664年、イギリスはオランダから新大陸(アメリカ)を奪い、中心地ニューアムステルダムをニューヨークと改名します。
この頃既にアメリカでは上流階級者たちの間に普及していました。しかし、イギリス領になってから茶税がグンと引き上げられ、アメリカの人々は高い税金に苦しむようになります。
アメリカ人たちはオランダや他の大陸諸国が中国で仕入れたお茶を密輸品として安く買い入れ、イギリス東インド会社のお茶はたちまちに売れなくなっていきました。
1773年、イギリス議会は東インド会社を救済しようと「茶条例」を出します。これは、アメリカ植民地に茶を売るときは、本国輸入時の関税を全額東インド会社に払い戻し、アメリカでは独占的な販売権を与え、オランダからの密輸入を禁止させようとした条例です。
アメリカではこれに対して強力な反対運動が起こり、同年12月には東インド会社の船がボストン港に入港すると、その積み荷のお茶342箱(15000ポンドとも18000ポンドとも言われる)を海中に投げ捨てました。これが有名な「ボストンティーパーティー事件」です。
一説ではこの時投げ入れられた茶葉からお茶が抽出され、海の色が赤茶色に染まったとも言われています。
イギリス議会はマサチューセッツ議会にこの弁償を求め、ボストン港の封鎖や軍隊の駐留などの圧政を敷きますが、1774年にアメリカ側はイギリスに対立、1775年の独立戦争へと発展していきました。
独立戦争以降、アメリカでは紅茶はイギリスの圧政と束縛の象徴とみなされ、人々はコーヒーを飲むようになったそうです。